本日は精神世界のことに興味のある方にとっては言わずと知れた名著「ニュー・アース」をご紹介させていただきます。
ニュー・アース著者
著者のエックハルト・トールさんは海外では非常に有名なスピリチュアル、ニューエイジにおける指導者です。ただ、スピリチュアルリーダーというよりも、個人的にはどちらかというとインドなどで「グル(師)」と呼ばれるような方々に似た雰囲気を持っているような印象を受けます。
もちろん語られている内容もかなり近いものがあるのですが、極めて東洋的な表現をされているかというとそうではなく、やはり西洋でも一般的に通じるように論理的な話の組み立て方をされていらっしゃるように感じます。
ただし論理的とは言っても難しい表現はあまり使わず、多くの方に伝わるように平易な言葉で語られています。
どんな書籍?
ところで、よくこういったスピリチュアルに関する書籍を読んだりすると、「実践」が大切だと言われますが、個人的には「実行」のほうが響きとしては好きです。
意味にそこまで厳密にこだわっている訳ではないのですが「実行」と言った場合には、「まさにこの瞬間、現実に自分が行動を起こす」というニュアンスがより多く感じられ、そこには少なからず「行動に移す」という意志というか、覚悟のようなものが入り込んでいるような印象を受けます。
長期間に渡って実践し続けるということよりも、「今、ここ」で実行する。その積み重ねを振り返ったときに「あぁ、これだけ実践してきたんだな」となる。
そんなイメージを勝手に持っています。
敬愛する中村天風先生の講演録などにも「あとはご実行あるのみ」というような言葉がよく登場します。
実は本書の内容はまさにその「今にある」ということの重要性を伝えてくれています。
そしてその「今にある」ことを不可能にしている原因は「エゴ」であること。
多くの人はこの「エゴ」のことを「自分」だと勘違いしたまま生きていること。
その状態で生きているといつまでも「今にある」ということができないので、その状態から抜け出すために得るべき認識と、実際に「今にある」ということを体験するための具体的な方法を本書を通じて伝えてくれています。
個人的な感想ですが、読むだけでどんどん「今にある」の感覚を体験することができる素晴らしい書籍です。
今回は複数回に分けて紹介させて
いただきます。
本書の目的
それではまず、本書の目的について著者が語っている部分を引用させていただきます。
ここで言う「目覚め」とは「自分」とは「エゴ」つまり思考や感情などの「心の働き」、あるいは物質的な肉体や所有しているもの、対外的な地位などとは関係のない、全くの別物であるということに気がついている意識状態になるということです。
つまり「私」とは何かということを正しく認識することが「目覚めた状態」ということです。
精神世界の本を読んだり、〇〇の法則みたいなものに関する情報を得たりするのは、それぞれに様々な理由があるかとは思いますが、最大公約数的に表現するならば「幸せになりたいから」あるいは「不幸をなくしたいから」となるはずです。
ところで今現在不幸を感じている「私」とは一体何か。
先ほどすでにヒントが出ていましたが、心でも体でも、まして所属している組織でもない訳です。
ちなみに言うとこのチャンネルでよく説明する「魂」である、とか「霊」であるという表現とは別の観点から著者はそれを教えてくれます。
むしろ「霊である」というのも一つの思考であり、絶対的に目覚められる認識ではないという主張も出てきます。
ただしそれが間違いという訳ではなく、「私とは霊であると自覚している自分」「魂のことについて学んでいる」という思考をアイデンティティとすることが正しくないという意味だと捉えることができます。
これはここで説明しても頭がこんがらがってくるかと思いますが、この先ゆっくりと読んでいただければ段々と理解していただけるのではないかと思います。
とにかく、「私とは何か」ということを考えたこともないという人も本書を読めばその探究のプロセスが始まるし、すでにそういったことを探究し様々な学びをしている人にとってはそのプロセスが加速する、そんな書籍になっていると著者は語ります。
「目覚め」の準備
では次に実際に目覚めるために必要な準備について見ていきましょう。
まずは自分は眠っているということを自覚する。
そして次に目覚めを妨げている原因を認識すること。
ここでは眠っている状態を「エゴイスティックに考え、話し、行動する」と表現しています。つまり、自分勝手、利己的、自分本位な生き方をしている人は皆眠っている状態ということです。
もしそのような状態で生きているという場合は「あぁ、自分は目覚めていないんだ」とまずは自覚する。
そして、次に大切なのがそのような「利己的な生き方」をしてしまう原因である「人類に刷り込まれた思考プロセス」というものを認識すること。
つまり人類がどのように思考や感情、あるいは物質的なものを「自分」だと勘違いしてしまうのか、というその仕組みを知ろうということです。
実はこのとき「思考の流れを認識しよう」と観察している「意識」そのものが「本当の自分」となります。
皆さんが今ご覧になっているPCやスマホの画面があります。それを見ているのが自分で、画面は見られる対象です。「見る」のが「自分」で、「見られている」画面はもちろん「自分」ではありません。
つまり「思考」を「観察する」ということは「思考=観察される対象」です。
観察するのが「自分」です。
ではそのときに「観察している」ものは何か。それは「意識」あるいは「気づき」と呼ばれるものです。この「気づき」の状態に戻れたとき、一瞬でも「目覚めることができた」と言えます。
眠っていて真っ暗闇だったところへ、「意識(気づき)」という「光」が差し込むということです。
目覚めが必要な理由
それではここから「今にある」ことがなぜ重要なのかという点を見ていきましょう。
著者は古い宗教や伝統的なスピリチュアルに共通する2つの洞察を元にそのことを順に説明しています。
まず一つ目は、人類は集団的に機能不全に陥っているということ。機能不全というのは、本来の人間としての正常な働きが出来ていないということです。
例えば、アンパンマンが自分のことを単なるアンパンでしかないと思い込んでいたら、空を飛んでパトロールすることもなければ、お腹が空いている人、困っている人を助けるということもしません。出来ないと思い込むというより、そんなことが出来るということすらわからない状態だからです。これでは、せっかくのすばらしい能力も全く機能しません。
それと同じように、人類も「自分」のことを「本当の自分」ではない別のものだと思い込んでいます。
それが先ほど言った思考や感情などです。
詳しいことは第2章以降、次回の動画以降でお話ししますが、簡単に言うと「怒り」を感じた際に「自分が怒っている」と、「怒り」と「自分」を同一のものとしてしまいます。
本当は「怒り」という感情が展開する生命という場、気づき、意識そのものが「自分」であり、「怒り」とは別物です。
しかし、多くの人がそのことに気づかず眠った状態で生きています。その結果、本来であれば恐怖や貪欲さ、権力欲などといった巻き込まれなくても良いものに巻き込まれ、狂気的な行動に出てしまいます。
そのようにして人類は集団催眠状態で集団的狂気の歴史を繰り返してきました。
一体どんなことをしてきたか、それは争いだらけの歴史を見る、あるいは今すぐTVやネットのニュースを見ればすぐにわかります。
奴隷制、拷問、戦争、自然破壊、動物に対する暴力的な行為、個人間あるいは組織間のトラブル・・・社会レベルでも個人レベルでも狂気が蔓延しています。
その原因が、この機能不全にあるということです。
お互いに傷つけ合い、奪い合う、あるいは一方的に傷つけ、奪う、このような生き方をする原因が眠りの状態で機能不全に陥っていることなのですが、そのような人が多数をしめているので、むしろそれは「ふつう」の状態だと考えられています。
「自分が恐れている」
「自分のプライドが傷つけられた」
「自分は他より劣っている」
このように、思考や感情、外部的な状況を「自分」だと思い込んでしまうことにより、それをなんとか変えなければいけないと抵抗します。
その抵抗の一種として「もっと多く」を望んだり、自分のプライドを傷つける相手をやっつけたくなったり、他者を支配したくなったり、そんなことをお互いにずっとしてきた結果、人類は狂気の歴史を紡いできました。
この「ふつう」の状態を、仏教では苦と表し、キリスト教では「原罪」と表します。「罪」とは的外れという意味で、的外れな生き方つまり本来の人間としての生き方ではない生き方をすることが原因で全ての苦しみが生み出されているということです。
よく、人間の苦しみの原因は恐怖や貪欲さなどと言われることがありますが、それは正確ではないと著者は言います。
どういうことかというと「機能不全」の結果、恐怖や貪欲さ、権力欲が生まれ、それを解消しようとして「誰かから奪おう」、「誰かの幸福を妨げてでも自分だけは得しよう」という狂気的な行動を起こしてしまうということです。
しかしそれでは根本的な解決になりません。
恐れから「もっとたくさん得よう」と思って努力しても満たされることがないばかりか、今度は手にしたものを失うことへの恐怖までプラスされます。
こういった場合に、スピリチュアルなアドバイスとして「恐れ」を手放しましょうと言われることがありますが、それも正しくないと著者は言います。
なぜならば、根本的な原因は「機能不全」だからです。もっというならば「眠っている」ことによる「機能不全」です。
仕事中に寝てると仕事が溜まってしまいます。それを何とかしようとして誰かに押し付けたりするのはおかしいですよね。これはまさに狂気的な行動です。
だからと言って、その溜まった仕事を一個ずつ捨ててしまいましょうっていうのも、おかしいですよね。
溜まらないようにちゃんと目覚めてて一個ずつ片付けていけばいいだけです。
「恐れ」も目覚めた本来の生き方をしていれば溜まることなく、その瞬間瞬間に片付けていけるだけの能力が本来人間にはあるということです。
また、「恐れ」ではなく「愛」を選択すれば良いということが言われうこともあります。
ここにも実は罠があるのですが、これはメンバーさん限定でお話しさせていただきます。
そしてもう一つ、機能不全を克服するために自分勝手な状態、利己的な状態を克服して人格を磨き、良い人間になろうとする場合もありますが、これも結局は「良い人間になろうとしている自分」という自己イメージを強化するだけで、根本的な問題解決にはなりません。
間違った道を歩いているから出てくる問題を解決できるような人間になるぞというよりも、正しい道に戻ればそもそも問題が起きなくなるということです。
それではここから「今にある」ことがなぜ重要なのかという点を見ていきましょう。
著者は古い宗教や伝統的なスピリチュアルに共通する2つの洞察を元にそのことを順に説明しています。
まず一つ目は、人類は集団的に機能不全に陥っているということ。機能不全というのは、本来の人間としての正常な働きが出来ていないということです。
例えば、アンパンマンが自分のことを単なるアンパンでしかないと思い込んでいたら、空を飛んでパトロールすることもなければ、お腹が空いている人、困っている人を助けるということもしません。出来ないと思い込むというより、そんなことが出来るということすらわからない状態だからです。これでは、せっかくのすばらしい能力も全く機能しません。
それと同じように、人類も「自分」のことを「本当の自分」ではない別のものだと思い込んでいます。
それが先ほど言った思考や感情などです。
詳しいことは第2章以降、次回の動画以降でお話ししますが、簡単に言うと「怒り」を感じた際に「自分が怒っている」と、「怒り」と「自分」を同一のものとしてしまいます。
本当は「怒り」という感情が展開する生命という場、気づき、意識そのものが「自分」であり、「怒り」とは別物です。
しかし、多くの人がそのことに気づかず眠った状態で生きています。その結果、本来であれば恐怖や貪欲さ、権力欲などといった巻き込まれなくても良いものに巻き込まれ、狂気的な行動に出てしまいます。
そのようにして人類は集団催眠状態で集団的狂気の歴史を繰り返してきました。
一体どんなことをしてきたか、それは争いだらけの歴史を見る、あるいは今すぐTVやネットのニュースを見ればすぐにわかります。
奴隷制、拷問、戦争、自然破壊、動物に対する暴力的な行為、個人間あるいは組織間のトラブル・・・社会レベルでも個人レベルでも狂気が蔓延しています。
その原因が、この機能不全にあるということです。
お互いに傷つけ合い、奪い合う、あるいは一方的に傷つけ、奪う、このような生き方をする原因が眠りの状態で機能不全に陥っていることなのですが、そのような人が多数をしめているので、むしろそれは「ふつう」の状態だと考えられています。
「自分が恐れている」
「自分のプライドが傷つけられた」
「自分は他より劣っている」
このように、思考や感情、外部的な状況を「自分」だと思い込んでしまうことにより、それをなんとか変えなければいけないと抵抗します。
その抵抗の一種として「もっと多く」を望んだり、自分のプライドを傷つける相手をやっつけたくなったり、他者を支配したくなったり、そんなことをお互いにずっとしてきた結果、人類は狂気の歴史を紡いできました。
この「ふつう」の状態を、仏教では苦と表し、キリスト教では「原罪」と表します。「罪」とは的外れという意味で、的外れな生き方つまり本来の人間としての生き方ではない生き方をすることが原因で全ての苦しみが生み出されているということです。
よく、人間の苦しみの原因は恐怖や貪欲さなどと言われることがありますが、それは正確ではないと著者は言います。
どういうことかというと「機能不全」の結果、恐怖や貪欲さ、権力欲が生まれ、それを解消しようとして「誰かから奪おう」、「誰かの幸福を妨げてでも自分だけは得しよう」という狂気的な行動を起こしてしまうということです。
しかしそれでは根本的な解決になりません。
恐れから「もっとたくさん得よう」と思って努力しても満たされることがないばかりか、今度は手にしたものを失うことへの恐怖までプラスされます。
こういった場合に、スピリチュアルなアドバイスとして「恐れ」を手放しましょうと言われることがありますが、それも正しくないと著者は言います。
なぜならば、根本的な原因は「機能不全」だからです。もっというならば「眠っている」ことによる「機能不全」です。
仕事中に寝てると仕事が溜まってしまいます。それを何とかしようとして誰かに押し付けたりするのはおかしいですよね。これはまさに狂気的な行動です。
だからと言って、その溜まった仕事を一個ずつ捨ててしまいましょうっていうのも、おかしいですよね。
溜まらないようにちゃんと目覚めてて一個ずつ片付けていけばいいだけです。
「恐れ」も目覚めた本来の生き方をしていれば溜まることなく、その瞬間瞬間に片付けていけるだけの能力が本来人間にはあるということです。
また、「恐れ」ではなく「愛」を選択すれば良いということが言われうこともあります。
ここにも実は罠があるのですが、これはメンバーさん限定でお話しさせていただきます。
そしてもう一つ、機能不全を克服するために自分勝手な状態、利己的な状態を克服して人格を磨き、良い人間になろうとする場合もありますが、これも結局は「良い人間になろうとしている自分」という自己イメージを強化するだけで、根本的な問題解決にはなりません。
間違った道を歩いているから出てくる問題を解決できるような人間になるぞというよりも、正しい道に戻ればそもそも問題が起きなくなるということです。
「善」の引き出し方
外側に善を作り出そうとしても、外側の条件に合わせた善になろうとしても、それは決して良い仕組みや良い人間になるということではない。
こちらを立てればあちらが立たずというように、誰かにとって善いということも別の立場にある人からすると悪ということになることもあります。
では、この自分の中にある善というのはどういうことか。
これは「本当の自分」のことです。思考や感情、物質的な何かに同一化していない自分。つまり純粋な「意識」としてその場その場に合わせて「善い」と思う対応をしていく。そこには利己的な思いが入り込まず、お互いに益になるような答えが出しやすくなる。
例えば子育ての方針で夫婦で意見がぶつかったとします。
その時に自分の信じている子育ての方法であったり、それを説いている先生やコミュニティと自分を同一視していると、パートナーにそれについて反対されたと同時に、「自分が否定された」と感じて頑なに別の意見を取り入れようとしなくなるということもあり得ます。
反対したほうも「おかしな教育方針にはまっている。こちらの言い分が正しい」という思考と自分を同一視していると、相手の主張のおかしな点をどこまでも追求することで自分の正しさを証明しようとしてしまうかもしれません。
それは、お互いが「自分」というアイデンティティを守りたいからです。
しかし、どちらか一方が目覚めた状態であれば自分の主張を通すとか自分の尊厳を守るという間違った目的ではなく、「どうすれば子供にとっても自分たちにとっても最高の答えを出せるのか」という視点で会話をすることができます。
そこでは相手を論破しようとか、自分の正しさを証明しようとかという間違った会話は繰り広げられません。相手が勝負を挑んできても、それに乗じることがなければ話はそちらに向かいません。
そのように、「善」とはその場その場に応じて愛と調和をベースにした行動や言動ができた時の結果だと思います。
これはもちろん本書の内容ではなく、個人的な考察です。ただ、このように考えるとこの部分がわかりやすいかなと思います。
「冷静に」というよりも「霊性で」対応するということでしょうか。
そのためには、眠った状態から目覚める必要があります。ふと「あ、自分は今自分の怒りと同一化している」と気づいたらサッと「気づき」の視点に戻らなければなりません。あるいは、そもそも巻き込まれないように、普段からそのような視点で生きることを練習することも大切です。
ところで、この視点がないままに社会的な構造、国や自治体、企業、サークルなどのグループの仕組みを変えようとしてもうまくいきません。どれだけ高貴な理想を掲げて改革しても、いずれ崩れてしまします。著者は共産主義とソ連の例を持ち出し、それを説明します。
内なる現実を変えずに、外部の現実を変えようとしても結局それは一時凌ぎにしかならなないということです。
鏡を覗いた時に顔に傷があるからといって鏡のその部分にファンデーションを塗っても仕方ありません。
実際に顔の傷を治すことが大切です。
この世界は私たちの意識が現実に投影されたいわば結果ですから、結果を変えようとするよりも原因である意識をまず変化させる必要があります。
ですから何かを改革しようとする時は「物」や「形」だけに捉われず「心」や「魂」あるいは「意識」というものを土台にし、その上で「善い」と思われるものにしていかなければなりません。
「物」の原理に従って作られたものはいずれ崩壊します。形あるものは必ず壊れます。
どれだけ強固に見えても内側から崩壊すると著者は語ります。
例えば、これは個人的な経験と感想ですが「学校教育に通知表は不要」という理想を掲げて評価されない自由な学校を作るというのは、それを推し進める人からすると良い試みのように感じるかもしれません。
ただそれはあくまで仕組みの問題ですから、形の観点での話です。それがいけないのではなく、「なぜそれが必要なのか」という「心、魂、意識」の部分が肝心の子どもたち、あるいは親に伝わらなければ単純に「既存の体制に反対している自分たちこそ正しい」という一種の自己陶酔にすら陥ってしまう可能性があります。これはもう既に眠った状態です。
その状態では、遅かれ早かれ内部でその動きに反対するあるいは賛成しないという動きが出てくれば崩壊してしまいます。
そもそも伝えたかったのは「自分の可能性を他者に決めさせてはいけない」とか「自分の興味のあることを諦めない」とか、そういったことで、そのための形・仕組みとして「評価されない学校」とか「自由な校風」というものを目指したのではないかと思います。
だとすると、その学校を出れば必ず現在の社会では誰かと比べられるという状況に直面するわけですから、むしろその時に「比べられても気にしない」とか「自分のことを誰かと比べて劣っていると思わない」とかというようなことができるような「心、魂、意識」の教育のほうが先なのではないでしょうか。
あるいは「自分に興味があることがあるのと同じように他人にも大切にしているものがあるから、それを否定しない」とか「自分の幸福を得るために他人の幸福を妨げない」ということをわかってもらえるような工夫のほうが先なのではないでしょうか。
そういったものを土台にして、形や仕組みを変えていかなければ、どのような改革を行なっても「物」の原理に支えられている仕組みはいずれ崩壊するということを忘れてはいけないと思います。
ではどうすれば良いかというと、その「改革を推し進めよう」とか「このままじゃいけない」とかと思い行動する人がまず機能不全を克服する、つまり目覚めるということが大切です。
宗教と目覚めの関係
それでは次に、古い宗教や伝統的なスピリチュアルに共通する洞察の二つ目をお話ししていきます。
これはとても単純で、「眠っているなら目を覚ませば良いんだ」ということ。そして「目の覚まし方」を教えてくれた人が時代時代に現れていたということです。
この目覚めを、悟り、苦滅諦、解放などそれぞれの時代や場所に応じて表現されてきました。
悟る方法と言ったとき、これは要するに「機能不全を認識し脱する方法」ということを伝えてきてくれたということになります。
しかし、そのようなことを伝えてくれた個人、たとえば主イエスやお釈迦様と呼ばれる人の教えは後にそれを伝えるために組織化され、その組織の維持を目的に歪み、誤解され、「目覚める方法」どころかむしろ深い眠りに落ちてしまうような睡眠薬のような働きをする宗教になってしまっている場合も少なくありません。
目覚める方法を伝えたその人自身が崇め奉られ、その信仰と自分を同一化してしまうと、目覚めからは遠のいてしまいます。それを推し進め、それが受け入れられない人は間違っているとし、時には戦争にすらなってしまう状態が今でも続いています。
「目覚め方はこうだ」
「いや、あの人が説いたのはこういうことだ」
「それは違う!こっちが正しい」
「いいや、あなたが間違っている。目覚める方法はこれしかない」
と、お互い夢の中で喧嘩しているような物です。
しかし、そのような状態になっても伝統的な宗教で伝えられてきた核心的な部分、「目覚めるための方法」は消えない光として存在しています。
それを受け取れるかどうかは一瞬でも目が覚めたことがあるかどうか、同一化から抜け出して「意識」の視点に戻ったことがあるかどうかにかかってきます。
組織を守ることだけに躍起になっている伝統的な宗教やスピリチュアルの偉い人はその逆で眠り続けている人ですから、結局は正しく本質的な光を伝えるということができなかったということです。
そのような中でも、「本質的にはこうなんじゃないか」ということを探究し伝えた宗派も時代時代に現れ、その都度その光を一人でも多くの人に届けようと尽力しました。秘教、密教としてのそれは、主流派からは脅かす存在として異端視され、攻撃され、結局多くの人に知られるということが叶わない場合の方が多かったようです。
そして、その秘教・密教の組織も時代と共に伝えていた本質を忘れて形骸化し、組織を守ることが目的となり、主流派と同じように眠りについてしまったという流れになることのほうが多いようです。
本当にスピリチュアルな状態
とにかく「どんな意識の状態にあるか」ということを「自分がスピリチュアルかどうか」の判断基準とすることが好ましいでしょう。
意識の状態、つまり眠っているのか目覚めているのかで行動や言動の選択が変わり、人間関係や社会生活に影響を与えます。つまり、人生全体に影響を与えます。
意識の状態ではなく、戒律であったりこうでなければならないというようなものに固執し続けているならば、そのスピリチュアルな指導者あるいは宗教組織は本当の意味で自分の人生を良いものにする力にはなってくれないかもしれません。
そしてそのような組織はエゴの塊ですから、先ほども言ったようにいずれ時がくれば必ず崩壊します。開祖が亡くなる時に組織の維持や教えにこだわるな、あるいは解散しろと示したにも関わらず、その後も組織の維持、拡大に努めた結果形骸化してしまった宗教も多く存在します。
これは何も宗教に限った話ではなく、企業でも政府でも、もっと言うならば家庭でも同じです。形や仕組み、決まりごとは大切かもしれませんが、それらがなぜ大切なのかという意識の部分が欠けているならば、物の原理が働いて徐々に崩れていきます。
迫られる選択
人類は今、重大な選択を迫られていると著者は語ります。
それは目覚めることで、意識的な人間として進化の道を歩むか、あるいは眠った状態を続けて死滅するかです。
機能不全、つまり利己的な生き方に加えて、科学技術が目覚ましい発達をしたことによって、その使い道を誤ることで大変な被害を人類のみならず地球全体に及ぼすことができるようになってしまいました。
ですから、もしそれに危機感を覚えるのであれば、まずは自分一人でも目覚めることで人類全体の目覚めを促進させる必要があります。
目覚めるとは、先ほどから述べているように「意識」「気づき」が自分であるという状態に立ち返ることです。
思考、感情など「頭の中の声」は自分ではないという認識を持つことです。
「頭の中の声」に気づいているもの、それが「自分」です。
感情や知覚が展開する「場」そのものが「自分」です。
それは「生命そのもの」と言い換えることもできます。
そうではなく、思考や感情に自分が同一化していると、自分を見失います。
そしてもう一つ、他者との繋がり、結びつきも見失います。
意識、気づき、あるいは生命そのものの領域はすべての他者と共有しています。
人類と自然、あるいは私とあなた、これが分離したものであるという勘違いが利己的な行動、つまり機能不全につながります。
それを繰り返した結果が現在の人類の歴史です。
人類の集団的意識は地球の生命と繋がっていて、その変化がよくも悪くも影響を与え、地理的、気功的な変化として体験することになると著者は語ります。
ですから、機能不全の状態を続けていれば人類同士の争いで滅ぶ可能性だけでなく、外的な要因で滅んでしまう可能性もあるということです。
だからこそ、本書で体験できるような意識の変容が必要だということです。
所感
方法論や結論を知りたいと急ぐあまり「なぜそれが必要なのか」という部分を読み飛ばしたり、軽視しがちになったりしてしまう。
それこそまさに「自分は知っている」という「機能不全」のひとつの現れではないか。
ですから「もうわかってる」には気をつけなければいけないのではないかと改めて感じた。
物質的、精神的な行き詰まりを感じるとインスタントに特別な霊能、ピリチュアルな能力を身に付けたい、あるいは導いてもらいたいという動きが活発になるのも「自分は〇〇が出来る」「自分が属している組織は〇〇だ」という同一化によって簡易的に自己重要感を満たそうという心理の現れなのかもしれません。
しかし本質的に満たされず失望を繰り返す。
じゃあどうすれば・・・ということが本書は「読む」ことで「体験」出来ます。
ぜひご興味のある方はご一読を。